草の中から、思い出が顔を出す
- bubethels
- 10月22日
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私の生まれ育った家は、佐渡島の米農家です。両親が他界してから五年。空き家になった実家の管理のために、年に三〜四回ほど帰省しています。今年は、これが三回目の帰省です。
近所に住んでいた従兄弟が、自分の家とあわせて私の家の管理も手伝ってくれていましたが、今年三月に病気を発症し、娘さんの住む本土の新潟へ行ってしまいました。まだ若いのですが、療養のため仕方ありません。
たった半年で、家のまわりは私ひとりでは手に負えないほど荒れてしまいました。見たこともない場所に竹が生え、畑の草は私の背丈を超えるほど。どうしたものかと途方に暮れました。隣家もなく放置しても支障はないのですが、せっかくの佐渡の自然豊かな風景を草に覆われたままにするのが悲しくて、少しずつ草刈りを始めました。

母が「家で栗を拾えたら」と植えた栗の木は、ちょうど収穫の時期。草を刈っていくと、隠れていたイガ栗が顔を出し、拾いやすくなりました。畑の形が現れてくると、「ここにはナスを植えていた」「ここはきゅうり」「ここはスイカ」「ここは小豆だったな」と、次々に思い出がよみがえります。母が珍しい野菜を植えたとき、「名前を忘れないように」と台所に「ズッキーニ」と書いた紙を貼っていたことも思い出しました。


貧しい農家でしたので、両親は生活のために土方に出ることもあり、いつも忙しく、子どもを甘やかす余裕などありませんでした。喧嘩の絶えない家で、子どものころは「早くこの家を出たい」と思っていたものです。けれども、親を見送ってからは、不思議なもので、嫌だったことさえも懐かしく思えるようになるものなんですね。
よく働く両親でした。私の今の年齢でも、田んぼを作り、お米を出荷していました。私は親のように立派にはできないな〜といつも思いながら、今日も草を刈っています。


